Hiroshi Abe & His Orchestra
with Kenichi Honma
78's Era Jazz Party Astaire Redux

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ゲストに俳優や振り付け師として活躍されている本間憲一氏(Vocal&Tap Dance)をお迎えし、78回転時代のジャズをお届けします。ご来場、お待ちしております。

阿部寛

阿部サンに聞く②

2013年09月07日
高校生の頃初めてキャバレーの生バンドで演奏しましたが、当時はとにかく生バンドの需要が高かったですよ、有線もカラオケも何もない時代だったから。一つのお店が2つくらいのバンドを雇っていました。

帰り、新宿駅のホームに行くと、いかにもバンドマンらしい人が一杯いましたよ、「どこの店?」と話したりして。こういうことからも交流がありました。

新宿で演奏していると知り合いも増えて、短期間のうちにあっちこっちのお店に演奏しに行くようになりました。

高校の授業が終わって、家に帰ってギターを持って、お店に入るのは19時くらいだったかな。お店はもうオープンしてて、演奏は19時30分くらいから始まったんじゃなかったかな。最初のうちはお客さんが少ないから、バンマスが選んだジャズのようなもの(笑)をやってたような記憶が、、、。Cメロ譜みたいなものはあったかもしれないけど、、、、。当時、まだ譜面なんか読めなかったので、え~、、ソロが回ってきたらナンかやる、、と。ハハ、、。
チェンジバンドとメインバンドは大体40分くらいの演奏を交代でずっとしてます。バンドが交代する時は「チェンジワルツ」を演奏しました。19時30分くらいから確か23時30分過ぎくらいまでずっと生演奏がありました。終わると終電近くの電車で帰って、翌日は学校、、、、出席はギリギリでした(^^;)
新宿にいる間はチェンジバンドで演奏していたと思います。(高校生の間)
高校生の間は譜面読めないまま仕事してたと思います。

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これは高校卒業したくらいの写真だと思います。(注:後ろの車はボクの車ではありません、一年先輩のユアサ君の車です)

高校を卒業すると時間もあるし頼まれれば色んな所に行きました。私が18歳の頃というのは1972年くらいになります。

◆ 「伝説のジャズ喫茶『アローン』」 ◆

それから、高校を卒業した時に高校の同級生5人くらいと八王子で「アローン」というジャズ喫茶を始めました。同級生の一人に自由に使える店舗を持っている人がいて始めたんです。「アローン」はその後フリージャズのライブハウスみたいな感じになりましたが、初期は、いわゆる「レコードを聴かせるジャズ喫茶」として作ったんです。
その頃、渋谷にあった「オスカー」というジャズ喫茶が閉店したところで、私たちがオスカーのオーナーと掛け合い、レコードのコレクションを全部買い取りました。そしてそのレコードに自分達で買ったものを追加して「アローン」を始めました。レコードは2000枚くらいだったと思う。機材は当時売っていたかなり良いものを使ってました。同級生の清水君(後にVictorのディレクター)が機材に詳しくて、当時かなり高価な機材を揃えたと思いますよ。
共同経営の同級生が交代交代でお店に出ました。私もお店に出て、レコードをかけたりコーヒー出したりもしましたよ。
お店を始めて半年後くらいにはライブもしてました。例えば週一回とか。後にアローンによく出演した梅津和時さん(A.Sax)とはキャバレーのチェンジバンドで一緒だったことがありました。
青春時代にみんなが集って「あぁだこうだ」色んなことをやった、いい思い出の場所だね。
2年くらいこのお店に関わってましたね。

◆ 高校卒業後~渡米(22歳)までの生活 ◆

高校を卒業してからは、新宿以外のお店でも沢山演奏しました。

あ、そうそう、本八幡の、、、確か、、、セブンスターだったかな(定かではない)。ギターとベースを頼まれて、中学の一つ先輩の宮之上貴昭さんと二人で演奏したことがありましたね。キャバレーにいく手前に寿司屋があって、必ず二人でばってらを食べたような記憶があるんですよ(笑)

仕事に行ったお店で今記憶に残っている主な所と言えば、、、、

八王子、、、立川、、、、国分寺、、、それから~、、木更津、、、本八幡、、、鶯谷、、、大宮、、

あとどこ行ったかな、、、一杯あったんですよ。、、橋本とか、、、相模原、、近辺のお店は殆ど行ってると思います。

この時代は色んな店で色んな演奏をしました。まあ、ただ譜面はまだ読めなかったけど。
当時の私はまだ演奏で一生過ごそうとは思ってなかったから、アルバイトの感覚。だって、普通のアルバイトより全然ギャラがいいんだもん。

こんな風に書いてますが、今思うと演奏者に本当に上手い人は沢山いましたね。ビブラフォンで上手いひとも沢山いた。初山博さん、大井貴司さん、藤井寛さん、、他にもいたよ。一緒に演奏する機会はなかったけど、大井さんも違うお店で演奏していたので見に行ったりしてね。
一緒に演奏した中では、蒲田のキャバレーで何ヶ月がご一緒した方なんですが、テナーサックスの武田和命さんは良かったですね。ギターの今福さんは面白い方でよくお話しました。

あの頃、アメリカを紹介する雑誌が沢山出ていた時代で、高校生頃からアメリカに行って見たいと思っていた。サーフィンはしてなかったけど、サーフィンミュージックのあの雰囲気も好きだったし、アメリカでジャズを生で聴いてみたいってのもあったし、実際のアメリカの生活を体験してみたかったんだね。なので、演奏しながら貯金をしました。

この時代はキャバレーやクラブの演奏で稼いでいましたね。それ以外のアカデミックな仕事なんてするワケないじゃん(笑)
ギターを弾くことは楽しかったけど、何がやりたいかとかはよく分からずに色々何でもとにかく弾いていました。

続きはまた次回!

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1930年代・GroverのButterbean peghead色々。似ているようで、一組ずつ全部違う。手作り感満載のチューニング・マシーン。

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同、斜め画像。



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同じグローバーと言え、素材・メッキ等微妙に違う。1931年のギブソンギターに付いていたもの。

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30年初頭の物だと思うが、素材・メッキ等が明らかに違うもの。上の写真と寸法はまるで同じ。

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1934年のL-5に付いていたもの。似たような年代ではあるが、上記のものとは寸法が微妙に違う。

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上記のものと寸法は同じ。デザインが少々違う。ちなみに1935年L-5に付いていたもの。今までの4つのゴールド系グローバーはペグ本体にネジを使用していない。



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同、30年代の銀色系のもの。構造的にペグ本体にマイナスネジを使用している。

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1937年ギブソンL-4に付いていたもの。上記のものとも作りが違う。



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今回のマイナスネジとブッシュたち。1934年L-5のもの。

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同、銀色系。1937年L-4に付いていたもの。

同じような年代のグローバー・バタービーン・ペグですが、一組ずつ見ていくと素材・メッキ・デザインなど違っていて手作り感があり、面白い。

阿部サンに聞く①

2012年09月07日
祖父は勤勉で、そして三味線やお琴が好きな人でした。その影響でか、父はマンドリンを弾き、祖父は勤勉で、そして三味線やお琴が好きな人でした。その影響でか、父はマンドリンを弾き、叔父たちはそれぞれ歌を歌っていたり、ジャズ・ピアノを弾いていたり、、、という感じで、ウチは割りと音楽に恵まれた環境でした。

もともとウチは東京の押上あたりにありましたが、東京大空襲で焼けてしまい、川崎に引っ越し、そこで私が生まれました。

子供の頃、よく音楽を聴きました。

その頃聴いた音楽ですか?

父がその頃、出始めの「オープンリールデッキ」を持っていて、ラジオで流れていた音楽を録音して聴いたりしていました。ポピュラー・オーケストラものなどよく聴きました。(小学生の頃。)

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Robert Maxwell and His Orchestra
※小学校高学年(?)頃に豊田駅前のレコード屋で何枚か視聴した中で気に入って買ったEP盤。


当時はバンドの名前までは分からなかったけれど、大人になってから、懐かしくて調べて、LPを買って集めたりしました。当時よく分からずに、でも気に入って聴いていた「Martin Denny」や「Arthur Lyman」などのエキゾチック・サウンドや、「Three suns」は後からLPを結構集めましたね。

その後、ベンチャーズや、ビートルズのブームが来て、やはりそういうものもよく聴きました。ジミーヘンドリクスも好きでしたね。

中学一年の時に銀座の十字屋で父に買ってもらったフォークギター(フラットトップ:savoy)が私が初めて所有したギター。

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初めて手にしたギターと。(こんな写真しか見当たりませんでした。)

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※モズライトのコピーモデルのギター。私が所有したギターの三台目くらいだったと記憶しています。「メンフィスアンダーグラウンド」を弾いてるような、、、(笑)中三くらいかな。

当時は、お酒を飲むような店には大抵生バンドが入っていて、私の小学生の時の同級生のお父さんも、そういうバンドでバンマスやっていて、家にはたくさんジャズのLPが有り、よく彼の家に行ってジャズのレコードを聴いたもんです。彼は父親が音大に行かせようとしていたので、小さな頃からソルフェージュやピアノなんかをきちんと習っていて、私も一緒に1~2年くらいそういうことを習ったこともあった。彼はそのまま音大(作曲科)に行きましたが、私は行けませんでした、、、、ハハ。

初めて仕事したのも、彼のお父さんの紹介で。

新宿のキャバレー、、、、あ、そうそう、「アダムとイブ」って店に、何故か「ベースがいないから」とエレキベースで頼まれたのが最初の仕事だと思います。中学校三年、15歳の時かな。

その時の編成が面白くて、オルガン、トランペット、ベースという編成、、、、(笑)。

その当時は生演奏が当たり前だった時代。一つの店に必ず「メイン」と「チェンジ」(注1)という二つくらいの生バンドが入っていました。

ですから、初めて行った「アダムとイブ」がきっかけで、他の店にも演奏の仕事をしに行くようになりました。その後は主にギターで(笑)。

高校に通いながら仕事もしました。
よく居眠りしたな。出席日数もギリギリだったようですが、仕事をしながら学校も卒業出来ました。

演奏の内容としては、お客さんが入る前は、バンドの好きな曲をやってもよくて、ブルースなんかを小節を数えられないくらいやったような記憶があります、、、ハハ。
お客さんが入ると、ショーの伴奏、ダンスが出来るナンバーや流行歌、和製ラテン的なのとか、とにかくありとあらゆる音楽を演奏しました。

ギャラですか?結構良かったような気がする。一ヶ月ハコに入って8万~10万くらいもらっていたかな?バンマスになるともっと貰いましたよ。(注2)

注1:「メインバンド」と「チェンジバンド」・・・・店内に音楽を流し続けるために二つのバンドが入っており、「メイン」はショーの伴奏を主に担当。「チェンジ」はショー以外での音楽を担当。バンド交代の際は「チェンジ・ワルツ」と言って、様々なワルツの曲を演奏していた。
注2:1970年当時の大卒初任給がだいたい4万円ちょっと
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今回はエレキ系のパーツから。

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1960年代のTUNE-O-MATIC。少々珍しいナイロンのようなプラスチック・サドルの付いている金色系のもの。

上のブリッジと同じくナイロン・サドルの付いた銀色系のもの。
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パテントです。
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さきほどの銀色系のやつは、ネジ回し・解説書・箱付きです。
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その解説書です。ネジの向きを指定してあるようです。
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最近のゴトー製の似ているもの。使い勝手は一番良いかもしれない。サドルの素材はギブソンのものとは違いますが。
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同、銀色系。
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1970年代に交換用パーツとして買った記憶があるもの。日本製です。なかなかよろしい。
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実はあまりTUNE-O-MATICは使わないんです。やはり木製ブリッジが多い。ギブソン1931年の楽器についていたもの。
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1940年代の楽器についていたローズウッド系のもの。
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1970年代L-5についていたもの。
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修理用に私が作ったもの。
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